制作ノート(落胆の記)

35ミリ劇場用長編白黒映画『イヌ』をたった一人で完成させるまでの貧乏監督による
絶望と頓挫の性春記録

1993(25歳) 
 昼間は発ガン性物質のアスベスト除去作業に従事し、夜は新宿駅において
終電後のAM1~3に構内清掃をし、昼夜を問わず映画の製作資金を工面して
制作された3年がかりの個人超大作『風景映画』(50分)が完成し、ラッシュ
試写で知人の3人に見せただけで一般公開する気も体力の余力も消え失せ、
劇場公開の夢は、映画製作の後悔へと変わり失意のドン底へ…。

1994(26歳)
 もう映画は撮らないと心に決め込み、43歳の健康食品会社経営の未亡人女社長
と池袋で半同棲しながら同時に、ダイヤルQ2で知り合った35歳の千葉県鎌ケ谷
在住の主婦と、後に判明したのだが覚醒剤依存の34歳のピンサロ店員、24歳の
OLさんととっかえひっかえ肉欲だけの破廉恥な日々を過ごす。芸術家でも文化人
でもなく1日に3回セックスしてもただただ勃起しているだけの木偶の坊だった。
夢を失ったのだ…。射精しまくっても、生きるのがとても辛い毎日だった。

 5月、栃木県の那須で産業廃棄物処理施設での仕事が舞い込み、東京から移り
住む。ほんの数日で決断した。東京の風景も人間も日常も、そしてなにより生殖器
だけの男女の交わりに飽きたからだった。誰にも内緒の那須移転だった。

 6月、近所でメス犬のハスキーの迷い犬を保護し、勤務先の産業廃棄物処理場で
飼う事になる。ほぼ同時に処理場での工場長に昇格する。と言っても従業員の6人
は全員、中国人とマレーシア人であった。僕は世間一般にはただの捨て独楽である
ことは十分承知の上だったが、部下のアジア人が皆な優しくて、日本人以上に常識
的で僕の性に合って、結構気楽だった。

 7月1日、その迷い犬が工場内で4匹の仔犬を出産する。オスが3匹、メスが1匹。
親合わせての犬5匹と中国人、マレーシア人と気儘な日々を過ごし、映画制作なんて
どうでもよかった。
工場は24時間体制で給料は手取りで50万以上あり、銀行通帳に金だけが貯まって
いった。この年の暮れまでにメスのチコがダンプカーに轢かれ、約一分間の激しい
痙攣のあと死亡した。ダンプのタイヤに後頭部を踏まれ、目玉と舌が飛び出た状態
だった。一番可愛がっていた子であり、今だに夢にうなされる時がある。残りの3匹の
うち、サブローが行方不明になり、デン助が山形の知人の肉屋さんに貰われた(勿論、
ペットとして)、最後に残ったハスキー模様のクロと生活を共にすることになるが、皮肉
にもクロは真っ先に里親が見つかるだろうと、いつでも手放す心の準備は終わっていた。
元々の母犬は元来の放浪癖が身についていて、飯だけを平らげると、また流離ってゆ
く生活で、勿論また産み捨てられては適わないので避妊手術だけは行ったが、本人は
どこ吹く風であった。

 那須の山奥では10月頃から雪雲に覆われたが、そんな侘びしい12月のある日、月刊誌
「ダ·ヴィンチ」の記事で一匹の虐待にあった老犬の写真に衝撃を受ける。
片腕と舌を鋭利な刃物か何かで切断させられ、それでも懸命に命の律動を絶え果てず
にいるその姿に。その聖人に見えた老犬が偶然にもクロと姿、模様が似ていたのも大き
なきっかけだが、何よりもボロボロの姿が僕自信と重なり、悲しみよりも人間に対する
怒りが込み上げてきた。端っから何もない。世の中や社会に対しても、親·家族に対しても、
そして自分自身にもまるで自殺するかの様に、1つのアイデアを紙に書き殴った。

これは遺書かテロリストの犯行声明かの如く『糞のような話』というタイトルで脚本を完成
させた。この映画を撮る! そして死んでやる! 言いたいことを全て吐き捨てて野垂れ
死んでやると、覚悟だけは定まった。だが、資金は? 機材は? 仲間は? キャスティン
グは?そんな見切り発車の暴走機関車の様でいて、実のところ超軟弱な映画青年でも
あったのだが、目指すはボロボロの継ぎ接ぎだらけで異臭漂う廃棄直前の雑巾の様で
いて実は鋭利な刃物的な危険な映画作品だ。

 

1995(27歳)
 仕事の休みを利用して上京し、中古品のボレックス16とスクーピック16のムービー
カメラを購入して、無計画の儘、クロを主役の犬に見立てて高価なfilmを廻し続けた。
流れる雲や川を撮り、畑や草花を撮り続け、約3時間分のfilmを無駄に廻したところで
実は何も具体的な撮影を始めていなかったことに気付いた。
だから、取り敢えず移動用に中古のタウンエースを20万弱で購入。

 8月、盆休みを利用して、雑誌に載っていた老犬を探し当てfilmに焼き付けると決意!
居場所は千葉県八日市場市。それだけの情報である。
4日間、当てもなくさ迷い続けたが見当たらなかった。もし、その片足の老犬が
見付けられなかったら、この映画企画もボツにするつもりの強行軍であった。
いつも偶然を信じていた。努力、才能、資金より、僕はいつも偶然を優先する。
だが老犬は現れなかった。

 最終日の夕暮れ時に疲れ果てて、家路に着こうと立ち寄ったガソリンスタンドの
アルバイトの女の子にダメ元で尋ねたら『知ってます』の返事が返ってきて仰天した。
そのスタンドから5キロ程離れた所に捨て犬などを保護している施設に居るらしい。
早速16ミリのムービーカメラを担いで、担当者に交渉し老犬の姿を撮影することができた。
と、同時に、この映画を完成させる大義名分の任務が生まれた。

 8月15日の糞暑い終戦記念日(敗戦記念日)だった。そのボロボロの老犬·ジョンには
その後、二度と会うことはなかった。だが、彼の人生と僕の人生がシンクロするのは
この一瞬だけではなかった筈。
そして、突然、偶然に、この映画のクラククインが始まった。

 10月、順撮りも糞も関係なく、風景やクロの一人姿は腐る程、撮った。
いよいよ人間登場シーンだ。
仕事仲間やその友人、近所の住民を次々に口説いて出演をさせた。
録音、照明、撮影、小道具、美術、演出、衣装、運転手、ロケハン、全て一人だが、
助手にハルピン出身の中国人·付国江という片言の日本語を操る強腕がついてくれた。
映画業界とは全くの無縁のこの中国人がいなければ、映画前半の白黒部分の壁は
超えられなかったはずである。予算が端っから無い。
だから遮二無二二カメラを担いで走った。


1996(28歳)   
 夏。映画中盤に登場するフィリピン女性を捜しに、東京原宿の芸能プロダクションに
交渉するが、1日拘束ウン十万と足元を見られ、渋っていると、たまたまそこで
事務員をしていたフィリピン女性紹介され、「この子ならタレントじゃないからマネー
ジャーなしで1日15万でいいよ」と言われ、バカバカしくてこんなヤクザ嫁業に
心底愛想付きて?少し検討してから」と嘘の連絡先を渡して事務所を去った。 
栃木から原宿までの交通費がもったいなっかたが、早速次の日から栃木、
福島県内のフィリピンパブやインターナショナルパブを漁りまくった。
そして30代のフィリピン女性を1日拘束6万で雇う。
朝6時から夜11時まで強行撮影であったが彼女は文句一つどころか楽しんでいた。
そして彼女もそれきりで、二度と会うことはなかった。

 8月、偶然に老犬を撮影してからちょうど一年。
又、お盆休みを利用して中盤のカカシの特殊カラー部分を撮影する。子役の拘束が
4日間と定められていた為、その子の登場シーンのみをメインに撮り終える。
カカシ役は友人なので、後で日程が組める。(彼は東京上野出身の小泉重信という
現在は宮城県七ヶ宿町で自給自足生活を送っているが映画の後半、僕の片腕になって
くれた頼もしい男である)
ある撮影の時、雨のスーパーで買い物をしていた10代の女の子に15分五千円の
アルバイトと称して出演させる。町のピンサロでもフェラでチンポ一本抜かせて
手取り2.3千円だから、いい単発のアルバイトだろうと思った。

 10月、映画「竜二」の宣伝コピーではないが、所詮は映画業界にも署さず、
堅気の世界にも馴染めない半端モノ。
あっさりと産業廃棄物処理所を辞めてしまう。仕事しながらの映画撮影に
限界を感じていたのもあるが、真の理由は会社命令で作業員の内、誰か一人を
リストラせねばならないことになり、僕にその決定権を委ねられたので腹たって
自分をリストラしたのだった。会社の都合でリストラするならば、その会社は
潰してしまえ!もしくは端っから経営者は起業なんてするんじゃない。
そんな怒りに物申しても、結局は意味がないのだけれど、とにかくかっこよく
生きたかった。

 10月~12月、栃木県と東京都を何度となく往復しては、カカシの旅のシーン、
犬が車に轢かれるシーンなどを知人を介して貰い撮影を繰り返し、
二百五十万程の預金はなくなった。

 

1997(29歳)   
 1月、独身で犬の面倒を見ながら、仕事、映画を掛け持ちなんて不可能なので
渋々、大嫌いな大阪の糞実家に戻った。直ぐにスポーツ新聞の求人欄で建物
解体業の仕事に就いた。コンクリート、木造両方の解体だ。
昼夜問わずゾンビの如く働けば月50万近いキャッシュが得られた。
世間の誰もが僕が映画を撮っているとは知らなかった。なぜなら、ただの
汗臭い土木作業員だったからだ。特に映画監督になるつもりもなかったし、 
ただただ?糞のような話」を完成させて首でも吊って、この特定の人間にだけ
都合のよいからくり糞会社からオサラバするつもりだったから、運命の仕打ちには、
へっちゃらだった。

 大阪の生活では、中学時代の同級生だったフーテン野朗を撮影助手にして、
主に映画前半の僕自身が演じる強盗犯シーンを撮り貯めた。オープニングの
強盗シーンで犯人に射殺される血まみれの女性役が居なかったので、 
以前にもやった様に通行人の若い女性を15分七千円のアルバイトと称して出演させる。
町の本番エステではどんな嫌な客だろうが60分ケツの穴舐めて勃起させて、
手取りでそれ位なので良い単発アルバイトだと思った。 
現像の資金もなく、FILMを押入れに保管した儘、一年間我武者羅に働いた。
クロとの散歩だけが生き甲斐だったが堅気の労働後の夕風は意外と心地よかった。

 

1998(30歳)   
 4月、映画再開資金が整い、保管していたFILMを現像したが劣悪な
環境だった為か、その90%が感光していて使いものにならず愕然と数日間
寝込んでしまった。昨年一年間と莫大な金と労力が大袈裟に言えば
無駄になったからだ。だが考えてみれば、完成すれば死ぬのだから、
それだけ寿命が延びたと思えば肩の荷が降りたのである。

 ともだちのヘルス嬢にも慰められ、また強引に無理やり同級野朗を呼び出し、
昨年撮影した全てを、一から取り直した。同級野朗も心底呆れていたが他に
やる事もなく、2人で映画ゴッコを繰り返した。
夏、ラストのカカシがモンスターに変身するシーン以外は全て取り終え、
いよいよラストのところで、またしても資金が底をつく。

 12月、一発主義でクロと上京し、残った僅かな金でアダルトビデオを製作し
業界から大金をせしめようと手当たり次第に知人の女性を1日拘束20万
ギャラで交渉するが殆どの友人、知人を失う結果に。
知り合いのAV監督·溜池ゴローや初対面の平野勝之監督らにも相談したが、
逆に助監督になるように進められる始末であった。
数本の企画書をAV製作会社·SODに送りつけても梨の礫であった。

 

1999(31歳)  
 1月、何一つ収穫のないまま、帰阪し、また肉体労働者に戻り、昼夜を問わず
人生の強制労働に赴いた。

 3月、必死で資金を貯めながら、自宅でコツコツと編集作業に入る。そして、
ラストのポンコツ·ロボット製作や特殊効果に没頭する。合間にある縁で知り
合った2人の人妻と肉欲の時間を送る。2人共、僕より12歳と17歳年上だった。
映画編集と気儘なセックス日和の交互だった。

 12月、小説家の桐野夏生似と女優の風吹ジュン似の人妻たちに別々に見送られ
ながら、クロと再び上京し、ラスト撮影に向かう。東京·晴海、荒川河川沿いや
調布の現像所の駐車場、大久保公園近辺などの路上車内生活でコツコツと機材や
人集めなどを行う。何度も警察の職務質問に遭うが、そのたびにシナリオと道具、
機材を見せて説明した。警察官に「自由に映画が撮れて幸せですな~」と
皮肉タップリに言われたがアウトローの宿命だと自分に言い聞かせ腹いせに
ワンカップの日本酒を一気に平らげ公衆便所に直行してはマスターベーションに耽った。

 知人の映画関係者に35ミリのアリフレックスカメラを借りる。初めての35ミリ
ムービーカメラである。独学でFILM装填や露出を手探りで試しながら無謀にも
本番の日を迎える。果てしなく重い35ミリカメラと三脚、 移動式ドリー、バッテ
リー、照明ライト、延長コード、録音機、記録用DVカメラ、発電機、各特殊道具を
たった一人で動かしながら、絵コンテを見せながら数十人に指示を出し、一時間が
一日に思える程走り動き回った。そんな僕を見かねて、一人の女性が撮影助手に自ら
転じてくれる。僕より二つ下の吉田陽子と言う女性。直ぐに彼女に恋をした。
生まれて初めての恋だった。無性に、身も心も彼女とオマ〇コしたかった。
人生は面白いものである。この映画が完成すれば自ら命を絶つつもりなのに、
クランクアップの日に生まれ初めて恋をするなんて…。

 ラストカットは劇中でもラストカットのロボットが怪物の生首を群集へ得意気に
見せびらかすカットであるが、その準備中に、たまたま見学に来ていた映画学生が、
こともあろうに35ミリのアリフレックスのレンズをコンクリート地面に落として
しまい使用不能になったしまった。
「いいよ、いいよ」と学生を慰めたが、その実かなり動揺し泣きたかった。
カメラのケースに得体の知らない試したことのない古びたレンズが横たわっていたが、
躊躇せずそのレンズを装着した。
他に道はないからだ。

 

2000(32歳)   
 1月、真世紀を晴海公園に停めたボロタウンエースの車内でクロと2人っきりで
迎えた。今回の撮影用に持ってきた現金百万円も殆ど使い切ってしまい、現像した
プリントを抱いて中旬に帰阪した。高速は節約で使わず一号線をひたすら南下した。

 2月、早速2人の人妻との愛欲生活は復活したが、陽子ちゃんへの未練が残り果てには、
その人妻達に相談に乗って貰う始末だった。
結局、陽子ちゃんへの恋患いから2人の人妻は僕から去っていった。

 6月、ようやく自宅での編集作業が終わり、またしてもクロと上京し、元々、
小川プロダクションで使われていた荻窪の整音スタジオにてダビング作業が開始された。
同時に隣でダビング作業をしていたのが8ミリ映画?犬猫」の井口奈己監督であった。
?自己資金で35ミリなんて凄いですね」と驚かれていたみたいだが、
彼女の?犬猫」は後に35ミリの商業映画にリメイクされ、たくさんの賞を貰い、
現在は立派な映画監督さんである。舌出しトンボに完全にバカにされたような惨メサである。
約一週間の徹夜のダビング作業が終わり、いよいよネガ編集、りーレコ、タイトル撮影
などの最終に突入する。

 12月21日、全ての作業が終わり、調布の東映化学工業(現、東映ラボ·テック)にて
試写決行。のべ40人ほどが集まるが配給など今後は未定である。
この時点で借金が500万に膨れ上がっていたが返せる見込みもゼロだった。 

 

2001(33歳)   
 映画が完成したら死ぬと決めていたのにそれどころではなく、いかに陽子ちゃんと
オマ〇コするしか考えていなく、盛りの付いた若オスの如く発情していた。
やっとのことで陽子ちゃんと?バトルロワイヤル」を新宿の映画館に見に行ったが
何も手出し出来ず、逆に彼女に同棲相手が居ることが判り、
かなり動揺してどうしようもなかった。そして、またクロと寂しく帰阪した。

 2月、陽子ちゃんとのメールのやり取りが開始され、何の弾みか、同棲相手に内緒で
栃木県那須に温泉旅行の許可をゲットする。映画の借金も返さず、仕事も休み尻尾を
振りながら、また上京した。

 2月22日、夢のような吉田陽子との旅行が実現し、夜、温泉地で2人で夜空の星を眺め
ながら僕はこう言った、?幸せになると映画は撮れないんだよね」と。
彼女はキッパリ答えた。?いいえ!幸せでも映画は撮れるはずです!」と。
そして僕は彼女に?抱いても良い?」と尋ねた。「うん」と静かに頷いてくれた。
そしてセックスした。生まれて初めて、生きたいと思った。もう死なないと決めた。
この子と2人で映画を撮りたいという夢が生まれた。
2泊3日の温泉旅行で8回セックスをした。
僕は大阪に戻り、彼女は同棲相手と関係を解消する。

 3月、勤めていた解体業の会社が倒産する旨を社長から聞かされる。これは良い機会
なので東京に移り住む決意をする。映画の配給どころではなかった。

 4月、また上京し陽子ちゃんの椎名町の部屋に居候しながら新しい拠点を探し武蔵
小金井に駐車場、庭付きの二階建て一軒家、家賃10万に決める。
庭の桜が満開に咲いていたのが決め手だった。

 5月、クロと陽子ちゃんと三人の暮らしが始まる。仕事は建築関係のコンクリートに
アンカーボルトを打ち込む仕事に従事する。だが、この頃から陽子ちゃんの精神状態が
徐々に悪くなってゆく。数年前から?うつ病」と診断され、薬なども服用していたのだが、
ますます悪化していった。
その頃、映画製作なんて同でもよかった。もっと素晴らしいものを発見したからだった。

 

2002(34歳)  
 8月、精神病棟に入退院を繰り返し、僕も仕事を辞め、陽子ちゃんの世話が
出来るように夜勤の短時間のアルバイトに変える。と、同時にクロを一時的に
実家の大阪に預ける。彼女の面倒だけに振り回されたが、彼女と出会わなかったら
今頃、僕は死んでいただろうし、神様は信じていないが、それらしいものは数々に
厄介な問題ばかりを提示した。

 9月、2人で動物虐待を扱ったドキュメンタリー映画「ムッシュ」を企画し、
宇都宮などにロケをし、主に陽子ちゃんがインタビュアーでビデオ撮影を
行ったが牛歩的な進展だった。

 11月、何気に「イヌ」を見て貰っていたシネマ下北沢という映画館からレイト
ショウの話が舞い込み、陽子ちゃんと2人大喜びした!やっと劇場公開できる!
嬉しくて劇場近くの古着屋さんで陽子ちゃんに4000円のセーターを買ったやった。
考えてみると、これが最初で最後のプレゼントだった様な気がする。
物でのプレゼントは僕自身、消極的でなぜかしなかった。でも物だけじゃない、
考えてみると何もしてやれなかったし何も力なれなかった。

 

2003(35歳)  
 1月31日(金)、いつもの様に夜勤の配送アルバイトを終え、朝7時に帰宅すると、
陽子ちゃんは睡眠薬自殺を図っていて、既に硬直が始まっていた。自殺推定時刻は
午前2時。その一時間前に話をして僕は仕事に向かった。
突然の別れだった。僕が唯一プレゼントした4000円の古着のセーターを着たまま、
彼女は息をしない、ただの物体になってしまった。放心状態で警察に電話し、
遺体安置所に両親や友人などが集まってから、僕は一人警察署の隣の空き地に行き
涙を流した。一人で阿呆のように嗚咽した。泣いて泣いて泣いて、そして、
泣き続いた。そして、この世で一人を実感した。

 4月、正式にシネマ下北沢にて劇場公開に関する契約をする。

 9月20日から10月3日までの二週間レイトショウ1日2回上映。
各劇場にチラシを置かせて貰い、駅前などでチラシ配布などもした。
夜中に勝手に電柱や壁などにもチラシを貼り付けた。たった一人で始めた映画製作だ。
最後の宣伝まで、たった一人でやり抜いてみせると意気込んでいたが、実際の所、
誰も協力者が居なかっただけの話だ。各著名人にもビデオテープと資料を送りつけ
コメントを求めた。三輪明宏、北野武、藤原新也、塚本晋也、坂本順治、若松孝二、
井筒和幸、長谷川和彦、高林陽一、手塚真や日本中の映画祭にも。
だが、汚らしく貧乏たらしい僕の映画には、誰からも返事はなかった。
この映画を完成したら死んでやると嘯いていたのに、天使のような陽子ちゃんが逆に
死にこっちは生きている。こんな皮肉な話があるものか。

 真夜中の高架下の壁などにキョロキョロと誰も居ないのを見計らって、
業務用のノリでチラシの裏面に塗りたくって数十枚を横一列に連続して
張り付けたりまるでコソ泥の様な不審者極まりない有様だったが、
不意に大粒の涙が溢れ落ちるのであった。

 僕にとっての映画製作とは、いつも落胆の連続だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

     
 
戻る
 
上に戻る

copyright(c)adg-theater,All Rights Reserved.